古典の力(53)仁と義の道

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

 

第五三弾、孟子から

 

仁は人の安らかなる宅(いえ)なり、義は人の正しき路なり。

仁義こそ、人の安らかなる住処であり正しい道である。

 

道徳と言わなくても、人に優しく思いやることや人との約束を守ることは大切だと感じている人は多くいることでしょう。

 

これに相違して、道徳を軽視したり違うことをする人もいます。

 

どちらの立場を取ることもできるのですが、孟子は道徳的である、仁義に沿うことは人が安らかな家にいるようなものであり、自然なことだとしています。

これに反している人をどのように言っているでしょうか。

 

言(ものい)いて礼儀を非(そし)る、これを自暴と謂い、我が身は仁に居り義に由(したが)うこと能わずとする、これを自棄と謂う。

 

道徳を無価値だと言うのを自暴者、道徳の価値は認めても縁遠いと実践を怠るのを自棄者、としています。
自暴自棄の語源です。
自暴自棄の人に対しては、とてもいっしょに居れない、いっしょに仕事はできないと指摘しています。

 

自分を高めるためには人を選ぶという考え方があります。
自分が善くありたい、ということであれば、自暴自棄にならない、自暴自棄の人に対して避けるのも一つの手段かもしれません。

古典の力(52)争わない

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

第五二弾、老子から

善く敵に勝つ者は与(とも)にせず。善く人を用いる者は之が下(しも)と為る。是れを争わざるの徳と謂う。

うまく敵に勝つ者は敵とまともにぶつからない。うまく人を使う者は、彼らにへりくだる。これを争わない徳という。

いかにも強そうな人に、同じ分野でぶつかり合っても負けてしまうでしょう。同じ分野でぶつかる意味は薄いかもしれません。
他人に動いてもらえるには、相手が気持ちよく上機嫌になれば動いてもらいやすくなります。結果、うまく人を使うといったことになります。そのために自分が下になることは有効な手段です。

争わないで我を張らないで目的・目標が達成できるように動く、これが「争わない徳」となります。

古典の力(51)報徳

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

第五一弾、二宮先生道歌選から

何事も事足りすぎて事足らず、徳に報ゆる道の見えねば

自分の現状や現在の世の中を当然のように思って不足不満足を訴えること、あるようです。

徳に報いて日々生きる道が見えなければそうなる、とこの歌では示しています。

徳に報いる、徳とは何か?

二宮尊徳は、どんなものにも徳があるとしていました。

恩義や良さと言い換えても良いでしょう。

親や地域、環境、良かったこと、苦い経験、何かしら「恩義」「恩徳」がある。

そして、現在の環境、状況、会社や上司、同僚、部下、お客様、道具にも「良さ」がある。
人であれば尊重できる「人格」、モノであれば使って良さを引き出せる「物格」とでも言える良さがある。

こう指摘しています。

自分を含めて「良さ」を十分に引き出すようにすることができれば、業務や活動は向上します。
二宮尊徳は、お互いの良さ「徳」を引き出す工夫をして、農政の変革を行っていました。

良さを意識する、伸ばす事は現在「ポジティブ心理学」といった分野でも注目を浴びています。

古典の力(50)富と名声

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

第五十弾、論語から

富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、処らざるなり。

富と貴い身分とは、これは誰でも欲しがるものだ。しかしそれ相当の正しい方法(正しい勤勉や高潔な人格)で得たのでなければ、そこに安住できない。

商売や活動をすると富や名声を得られるでしょう。必ず得られるとは限らないのですが、、、
得られるには、正しい方法が必要だと指摘しています。そして、そうでなければ一旦得られても続かないとも指摘しています。

自分の状況や世間の状況で真っ当であるかを問い続けることが、よい商売の秘訣と論語もしてきしています。

古典の力(49)リーダーの姿勢

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

第四九弾、論語から

其の身正しければ、令せざれども行われる。其の身正しからざれば、令すと雖も従わず。

我が身が正しければ、命令しなくとも行われる。我が身が正しくなければ、命令したところで従われない。

リーダーが背中を見せる。という言葉を聞くことがあると思います。
リーダーが行っていることを見せる、取り組み方を見せると言うことです。
良い取り組み方をしていると、命令しなくても様々行われることでしょう。

逆に、言っていることとやっていること、言行不一致のリーダーに自分はついて行きたいでしょうか。そのリーダーの命令を聞きたいでしょうか。従わないことでしょう。何か抑圧的なことでもあれば、意にそぐわない状況でいやいやながら従うかもしれません。

サッカーの岡田ジャパンも、命令しなくても自分から動くようになってチームワークができあがったということを選手自身が語っていました。

企業でも様々な組織でも同様でしょう。

古典の力(48)仕える

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

第四八弾、孝経から

孝を以て君に事(つか)ふればすなはち忠、弟(てい)を以て長(ちょう)に事ふればすなはち順。

父に事える孝を移して君に事えると、君に対する忠となり、兄に事える弟を移して長上に事えると、長上に対する従順となる。

親に孝行の気持ちで事える、接するポイントは、愛することと、敬うこととと孝経では記されています。その孝から発展させて、自分の主人・職場のボスに仕える(事える)ポイントは、敬うことである。これが「忠」であるとしています。
そして、先輩に事えるポイントは、自分が弟だとして家族に兄がいるとして兄に従うようにすること、これが長上(年上)に対する従順となり、言い換えると「順」であるとしています。

現代社会で、そのまま押しつけても拒否されてしまいそうです。
しかし、親や兄弟、家族に愛情があって、その考え方感じ方を職場に推し及ぼすと、よりよい職場、よりよい仕事ができるのでは無いでしょうか。

そして、忠も順も、ただ単に従順なわけではありません。

君が、長上が間違っていると感じたならば、諫言することが孝です。

古典の力(47)発揮させる

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

第四七弾、中庸から

能くその性を尽くせば、則ち能く人の性を尽くす。能く人の性を尽くせば、則ち能く物の性を尽くす。

自分の本性を十分に発揮することができると、それを推し及ぼして他人にもその本性を十分に発揮させることができ、他人の本性も十分に発揮させることができると、物についてもその本性をそれぞれ十分に働かせることができる。

チームで動くとき部下と仲間と一緒に働くとき、仲間が部下が力を発揮して、さらにプロジェクト全体が力を発揮するにはどうすれば良いのでしょうか。

中庸では、自分の果たすべき役割を理解して果たしなさい。そうすることで、同様に仲間や部下にも役割の理解と行動ができるようになり、人では無い物までも役割を果たせるようになると説きます。

チーム作業やプロジェクトにおける成果も同じでは無いでしょうか。
自分の果たすべき役割を理解し果たす。仲間や部下にも役割を理解して動いてもらうようにする。そうすると、プロジェクトの果たすべき役割も判り、プロジェクトが動くようになります。

古典の力(46)道理

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

第四六弾、中庸から

誠なる者は、天の道なり。これを誠にする者は、人の道なり。

誠とは天の働きとしての窮極の道である。その誠を地上に実現しようとつとめるのが、人としてなすべき道である。

雲が密集すれば雨が降ります。雨が降れば地にしみこみます。川を流れます。判りきった道理です。
中庸では、天の道理、天の道を「誠」と呼んでいます。

天の道理である誠を現実の世界で実現しようと努力するのが、人としてのなすべき道であると説いています。

天の道理を自分がどう体現するか???宗教問答のようです。

道理と目の前の業務との関連性、ちょっとピンと来ないでしょう。

ただ、ちょっとした仕事がうまくいったり、チームワークがうまく行かなかったり、これも道理が関係しているかもしれません。
そして、古くから伝わっている道理、参考にしても良いのではないでしょうか。

古典の力(45)四端

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

第四五弾、孟子から

惻(あわ)れ隠(いた)む心は仁の端(はじめ)なり。羞じ悪(にく)む心は義の端なり。辞(くだ)り譲る心は礼の端なり。是非(よしあし)の心は智の端なり。

あわれにいたましくおもう「惻隠の心」は仁の芽生えである。悪しきことをはじにくむ「羞悪の心」は義の芽生えである。へり下り人をすすめる「辞譲の心」は礼の芽生えである。よしあしを見分ける「是非の心」は智の芽生えである。

仁義礼智が人には必ず備わっているという「四端」についての説です。

古典の力(44)忍びざるの心

古典の力、日本や中国の古典からチームや組織の力を高める言葉に焦点を当てています。

第四四弾、孟子から

人には皆、人に忍びざるの心あり。

人には皆、他人に対して「忍びざるの心」がある。

「人に忍びざるの心」とは、他人の不幸や苦痛を見過ごしにはできない同情心を指します。
この心が、誰にも備わっているとしています。

これが、孟子の性善説のきっかけ、根本の言葉となります。

菅首相の「最小不幸の世の中」を目指すのも、不幸を見過ごさず可能な限り不幸を小さくしようとする「人に忍びざるの心」のような考えに見えます。

さて、人を性善説として捉えるか、性悪説として捉えるか、理屈では判然としない部分もあると思います。
動物行動学から考えると、他人の不幸を見過ごさず共感する行動から、性善説の方に分があるように感じられます。また、どちらか一色ということも考えづらいでしょう。

世の中の言説に対して、自分がどうありたいかを選ぶことはできるのではないでしょうか。